【作品】作った詩 - 1

もしかしたら歌詞か何かになるかもしれないし、ならないかもしれない。

揺籃

涙をもたらした青い海の底
あなたという存在が溶けている
忘れているのですか
世界が生まれる前のこと
全てがあなただったころのこと

ページを捲る指先の細さ
長く黒ぐろとした睫毛
うなじにある小さなほくろ
淡い桜色に染められた唇
嗚呼 ゆるしてください
あなたに焦がれているのです

あなたがいない日

どこからかピアノの音が聞こえてくる
地球儀のマゼラン海峡をすりぬけてみる
食べかけて取っておいたチョコレートを見つける
さらさらとした沈黙に耳を傾けてみる
リモコンの電池を変えなきゃと思い立つ
ぬいぐるみの毛並みに顔を埋めてみる
砂時計をひっくり返してただ眺めてみる
あなたが帰ったら 手を繋いでみようか

【雑記】17歳だけど、Z世代って言葉はどうかと思う・「〇〇ハラ」の危うさについて

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意見的なものは書くつもりなかったんですけど少しだけ。

 

 

私は2006年生まれで、新高校3年生だ。ちょうどZ世代と呼ばれる年代にそっくり当てはまっている。

が、私はこの言葉があまり好きではないし、これから私がZ世代を自称することもない。

それ、本当に世代の問題ですか……?

Z世代とは、1990年代半ばから2010年代序盤に生まれた世代で、2023年現在12歳~28歳前後の年齢層に当たります。デジタルネイティブ、SNSネイティブとも呼ばれるZ世代は、タイパ(タイムパフォーマンス)重視の効率主義、強い仲間志向、仕事よりプライベート重視、多様性を重んじるなど、従来の若者以上に特徴的な価値観を持っています。

引用:https://www.nri.com/jp/knowledge/glossary/lst/alphabet/generation_z

 

ここからも分かるように、Z世代という言葉は単純に「若者」を指すのではなく、多様性を重視するデジタルネイティブな世代、という意味合いをしばしば含む。

 

よって、純粋に世代の考え方や文化の傾向を論じるときだけでなく、大人が後輩や若者への不満を言うときによく使われやすいように思う。

よく見聞きするのは、身の回りで接した幾人かが頼りなかった、やる気がなかった、根性がなかった、指示待ち人間だった、だからZ世代は〇〇だ、という意見だ。

 

しかし、その論理展開は少し乱暴ではないだろうか。

例えば、やる気がない、という話一つとっても、
「まだ若く、未熟だから」「能力が足りないから」、さらに言えば、「発言者と性格が合わなかったから」まで、様々な原因が考えられる。

性別、年齢、居住地、本人の性格、その他にもいろいろな要素を加味して分析されるべきものを、生まれた年という分かりやすい要素に収斂させてしまうのは、やや拙速にすぎると思う。

個人的には、ただ都合よく叩きやすい「イマドキのZ世代」像を自分の中で組み上げ、それに世代全てを当てはめて批判しているようにも感じる。

 

もちろん、多感な思春期を過ごす、その社会のあり方によって、価値観に他の世代との違いが出る、というのはよく分かる。

で、あれば、「Z世代」を評する側の価値観は、一体どうなのだろうか。

 

「最近の若いものは」

古今東西、耳にタコができるほど聞き飽きたセリフだ。あのプラトンですら、同様の愚痴を書き残しているらしい。

誰もが言われてきた言葉だからこそ、言われる側も、聞く側も、ああ若いもの批判ね、あるあるだよね、という目線で見ることができる。

 

が、「Z世代」という言葉を使うことによって、「Z世代」と括る側のバイアスはないものにされる。

なぜなら、Z世代とは、年齢の定義ではなく、「生まれた年」の定義だからだ。

世代間の違いを相対的に考えるのではなく、単に「最近の若いものは」と言いたいだけの人も、この言葉を使えば、「あなたも通った道だ」という批判は回避することができるのだ。

 

正直、愚痴る側の気持ちも分からないではない。たぶん世の中には、私の想定を遥かに超えるような、非常識な若者がいるのだと思う。

だからこそ、そうなった原因を生まれた年一つで終わらせて、自分を顧みることなく若い世代全部を無自覚にディスるのは、それはやっぱり少し違うのではないだろうか。

また、あまり詳しくないので語れないが、これは、「ゆとり世代」など、他の言葉に置き換えても通じる話だと思う。

 

余談 「〇〇ハラ」について

Z世代という単語を調べているうち、目についた記事だ。
このニュースも、個人的にはどうも好きになれない。

そもそも記事の作りが、批判されること前提でZ世代を叩かれ役として位置づけているようにも思えるし──何より、これを読んだ人に、これが「Z世代」の総意だと思われるのはものすっっっごく不本意だ。

どうやら「Z世代」のどなたかの意見らしいが、もしこのようなことを言う同世代がいたら、私はたぶんその人とは仲良くなれないし、仲が良かったとすればそっと距離を置く。

自分が不快に思ったこと全てを「〇〇ハラスメント」という言葉に集約させてしまうことは、「Z世代」をディスることと同じ問題点を持ち、しかもある意味それ以上に危ういことだと思う。

 

そもそも「ハラスメント」という言葉は、相手を不快にさせていることに無自覚な「加害者」の横っ面を引っぱたき、そのことに気付かせ、かつそれを糾弾するための言葉だ。

しかし、他人に対して不快に思うことは、誰にだって日常的にあることだ。

そのため、言葉の性質上万人が使いやすく、しかも共感されやすい。


その結果、言葉だけが一人歩きして濫発される。

「ハラスメント」という言葉を使うだけで、「加害者」を糾弾する側に回り、かつ自分への批判を回避しやすくすることができるのだ。

しかも、それによって不信感が積み重なれば、本当に多大なダメージを負って声を上げた人のことまで軽く見られてしまいがちだというリスクすらある。

 

一番の問題は、「〇〇ハラ」を訴えるその人が実際にどんな人格であるか、聞いているこちらに分かりにくいことだ。

特にインターネットの世界では、事例の詳細が伝わってきにくく、「加害者」の主張が分からないことが多い。

しかし、その言葉が大雑把で抽象的であればあるほど、人はそれを都合よく解釈し、「被害者」に共感したり、逆に叩いたりする。

叩きやすいハリボテの像を自分の中に作り上げることができるという点で、「Z世代」と「〇〇ハラ」は似ていると思う。

 

人間関係や、コミュニケーションのあり方なんて、人の数だけあっていいはずのものだ。
それこそ「多様性」を重視するならば。

しかし、その中で不快に思ったことを「〇〇ハラ」という一言にまとめると、文脈を切り取る、つまりその微細な差異を丸っきり無視してしまうことになる。

人と人とのコミュニケーションなのだから、本来は、その差異こそが問題であり、互いに尊重されるべきものであるはずだ。

 

夢を聞かれることが嫌だったなら、こういう理由で私は嫌でした、と言えばいいと思う。
それを受け入れるか受け入れないかはその人次第だ。ハラスメントとしてまとめようとするのは明らかにいろいろなものをすっ飛ばしすぎだろうに。

 

相手の振る舞いを不快に思ったなら、ましてやそれを改善して欲しいのならば。

既製品の単語一つで終わらせてしまうのではなく、どこがどう不快であったのか、その詳細こそを言葉にするべきではないのだろうか。